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東京高等裁判所 昭和46年(う)3007号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人梅沢和雄提出の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用し、これに対し当裁判所は、次のとおり判断する。

控訴趣意一(事実誤認、法令適用の誤り)について。

所論は、

(一)、原判決は、罪となるべき事実として、被告人は、原判示日時場所において、普通乗用自動車を運転し、時速約四〇キロメートルで進行中、同所のバス停留所で乗降客取り扱いのため大型バスが停車中であり、道路左側の同車前から横断者の出現が予想できる状況であつたので、減速徐行し安全を確認しつつその側方を通過すべき業務上の注意義務があつた旨認定判示し、さらに、被告人および弁護人の主張に対し、被告人に右の注意義務があつた理由として、「被告人は、事故現場にさしかかる前約六〇メートルの地点で左側に定期バスが停止して客扱い中であつたことを現認している。当時はあたかも下校時刻で学生等十数人がバスに乗車しようとしていた。たまたまその時対向してくるバスがあり、対向の停留場に停車せんとの状況にあつた。かかる場合には往々にして停車中のバスの陰から道路を横断する者のあることは日常しばしば経験するところである。しかも被告人は約一四メートル手前で長谷川一恵がすでに車道上にあり、いつ道路を横断するかも知れない状態であつたことを目撃しているのである……」と判示している。しかし、右対向バスの停留所の存在は被告人の進路上からは発見が困難な状況にあつたため、初めて同所を進行した被告人は、対向バスが右停留所に停車しようとする状況にあつたことを認識しなかつたものであつて、これを認識しなかつたことにつき被告人に過失はなく、また、被告人が約一四メートル手前で長谷川一恵を目撃した際、同女はすでに対向バスに向つて歩道上から車道上にとび出し、車道を斜に横断しつつあつたものである。したがつて、対向してくるバスが対向の停留所に停車しようとする状況にあつたことおよび被告人が約一四メートル手前で長谷川一恵がすでに車道上にあり、いつ道路を横断するかも知れない状態であつたことをも理由として、道路左側に停車中のバスの前から横断者の出現が予想できる状況であつた旨認定した原判決は事実を誤認したものである。

(二)、かりに、被告人が対向バスの停留所の存在および対向バスが右停留所に停車しようとしていたことを認識していたとしても、停車中の北廻りバスに乗車しようとしていた者が、これと反対方向に向う南廻りバスに乗車しようとして道路を横断することがあることを予想できる状況にあつたとすることはできない。

(三)、本件道路は、車道と歩道とが明確に区別されており、しかも道路左側に停車していたバスの乗車口から約一二メートル能ケ谷寄りに横断歩道が設けられているのであるから、被告人としては、歩行者が交通法規を遵守し、右横断歩道上を横断するものと信頼して進行すれば足り、本件被害者らのように、右バスの前面から対向バスの前面に向けて車道上にとび出して道路を横断しようとする歩行者のありうることまで予想して進行すべき義務はない。本件交通事故は、被害者らの交通秩序無視によつて発生したものであつて、被告人としては、対向バスが前方約四〇メートルの地点を進行してくるのを認めたが、対向バスの停留所の存在は現認できない状況であつたので、右対向バスがそのまま進行してきて被告人運転の車両とすれ違うものと判断し、そのすれ違いの際に危険の発生を防止するよう配慮して進行したものであつて、この点からも、被告人は、道路左側から被害者らが進行中の対向バスの前面に向けてとび出してくるとは予想できなかつたものである。

(四)、原判決は、被告人が本件事故直前時速四〇キロメートルで進行中であつた旨認定しているが、右認定の根拠とするところのものは不明確で矛盾的要素が多く、これを認めるに足りる証拠は存しない。

以上のとおり、本件は、とくに被害者中村操二につきいわゆる信頼の原則が適用されるべき事案であるのにもかかわらず、道路左側に停車中のバスの前から横断者の出現が予想できる状況であつたものと認めて、被告人に原判示の義務上の注意義務があるとし、業務上過傷害罪をもつて処断した原判決は、事実を誤認した結果法令の適用を誤つたものである。

というのである。

一、原判決挙示の証拠および当審における事実取調の結果によれば、次の事実が認められる。

(一)原判示道路は、東京都町田市能ケ谷方面から鶴川団地を通り、同市真光寺方面に通ずるアスファルト舗装道路であつて、本件事故現場付近においては西方(真光寺方面)に向つてわずかに下り勾配状を呈し、右現場付近からゆるやかに北西にカーブしている。車道の幅員は約9.16メートルで、その中央にセンターラインが引かれ、車道の両側には歩道が設けられているが、南側歩道の幅員は2.57メートルである。右現場付近の道路南側には神奈川中央交通バスの、同北側には小田急バスの各停留所(停留所名はいずれも「大学前」がそれぞれ設けられ、右両バスとも小田急電鉄鶴川駅に通じている。右現場から能ケ谷寄りのT字路の交差点の西側には幅4.35メートルの横断歩道が設置されているが、右横断歩道の西端と前記神奈川中央交通バスの大学前停留所との距離は9.8メートルないし12.3メートルである。右現場付近の見通しは良好であり、歩行者の通行状況は、道路両側の各大学前バス停留所付近にのみ、主として鶴川団地の居住者および付近にある国士館大学の学生の通行が比較的多いが、通行車両の数は少い。

(二)被告人は、原判示日時普通乗用自動車を運転し、右道路を能ケ谷方面から真光寺方面に向い時速約四〇キロメートルで進行中、5.60メートル前方の道路左側にバスが停車しており、その乗車口付近に一五名ないし二〇名位の客が集つているのを認め、進路を変更し、減速したうえ、その客らの動静を注視しながら、警笛を一回吹鳴して右バスの側方を通過しようとしたが、右バスの後部右側方付近にいたつた際、被害者長谷川一恵(当時四年)が右バスの前方の車道上を左から右へ斜に道路を横断しようとして走つているのを約一四メートル左斜前方に認め、急制動の措置をとつたが及ばず、自車前部を同女に接触、これを転倒させた。

(三)被害者中村操二は、他の学生らとともに道路南側の大学前停留所に停車していた神奈川中央交通バスに乗車しようとしていたところ、真光寺方面から小田急バスが進行してくるのを認めたので、これに乗車するため、道路を横断しようとして右神奈川中央交通バスの直前の車道上に急ぎ足で出たところ、右バスのかげから進行してきた被告人運転の車両の前部左側面に接触したが、被告人は、右接触まで同人の姿を認めなかつた。

(四)被告人は、前記横断歩道上付近にいたつた際、約三〇メートル前方から対向して進行してくるバスを認めたが、道路北側の小田急バス大学前停留所の存在を認識しなかつたため、右バスがそのまま進行してくるものと考え、自車の右側面が道路のセンターラインから出ない範囲でできるだけ道路左側に停止中のバスとの間に間隔を保つて進行した。

二、次に、被告人運転の車両の本件事故現場付近における速度について検討すると、被告人は、司法警察員および検察官に対しては、時速約四〇キロメートル前後であつた旨供述しているが、原審および当審各公判廷においては時速約二〇キロメートルないし二五キロメートル位に減速した旨供述し、対向バスの運転者である原審証人高橋昌作は、被告人の車両が横断歩道を過ぎた地点でこれに気付いたが、その速度は時速二一キロメートルないし二四キロメートル位であつたと思う旨供述し、原審証人森島玲子は、横断歩道を過ぎた頃の被告人運転の車両の速度は時速二〇キロメートル以下であつた旨供述している。そして、司法巡査作成の実況見分調書によれば、本件事故現場には被告人運転の車両の残した二条のスリップ痕があり、その長さは左右とも9.90メートルであることが認められるが、右二条のスリップ痕しか認めることができないとすれば、左右とも前輪後輪が同一直線上を通過した場合であつて、仔細に見分すれば前後輪の重複部分があることに気づいた筈であり、この場合の実際の滑走距離は路上のスリップ痕の長さからその車両のホイルベースの長さを差し引いた数値であるところ、被告人の当審公判廷における述供によれば、被告人運転の自動車は日産スカイライン四四年型であつて、そのホイルベースの長さは2.49メートルであることが認められるので、被告人運転の自動車の滑走距離は右9.90メートルから2.49メートルを差し引いた7.41メートルであるといわなければならない。のみならず、スリップ痕の長さから車両の速度を算出するには、厳密にいえば、当該車両のブレーキの状態、道路の傾斜度、自重、荷重、車輪がロックしない状況における制動効果の問題等をも考慮することが必要であり、さらに路面とタイヤの摩擦系数も路面状況の僅かな変化によつて影響されるところが大きいのであるから、スリップ痕の長さと初速との関係を示す公式から算出した数値にはかなりの幅があるというべきであつて、前記各証拠を総合すれば、被告人運転の車両の本件事故現場付近における速度は、時速四〇キロメートル(制限速度)よりは遅く、時速三〇キロメートル前後であつたと認めるのが相当である。

三、ところで、車両を運転して客の乗降取り扱いのために停車中のバスの側方を通過する場合においては、そのバスから降りた客の動静を逐一確認することはほとんど不可能であるのみならず、そのバスと同一方面に進行する場合には、通常その右側方をきわめて近接して通過しなければならないのであるから、バスから降りた客が道路を横断しようとして、突然バスの前方から自車の進路前面に出現することは日常しばしば経験するところであり、この意味において、通常の場合には、自動車運転者に警音器を吹鳴し、直ちに停止しうるよう減速徐行すべき注意義務があるということができる。しかし、自動車運転者に対して要求される注意義務には、自動車の高速度交通機関としての使命および交通の円滑化という見地から、その具体的状況に応じて自ら限度があるといわなければならない。

そこで、本件についてこれをみると、当審における事実取調の結果によれば、本件道路北側に設けられた小田急バス大学前停留所の標識および同所における待客の存在は、被告人の進行方向からは道路のカーブのため電柱のかげとなつて発見することが困難な状況にあることが認められるので、初めて本件道路を進行した被告人が、前記横断歩道上付近において約三〇メートル前方から対向して進行してくるバスを認め、これがそのまま進行してくるものと考えたことにつき、被告人に過失があつたと認めることはできない。そして、前記認定のように、被告人は、前方の道路左側にバスが停車していることを認識したのであるが、そのそばにいた一五名ないし二〇名位の客は、いずれも右バスに乗車しようとして、その乗車口付近に集つていたものであること、そこで、被告人は、時速三〇キロメートル前後に減速したうえ、警笛を吹鳴し、右客らの動静を注視しながらそのバスの側方を通過しようとしたものであること、その際被告人は、対向して進行してくる前記バスを認め、これがそのまま進行してくるものと考え、自車の右側面が道路のセンターラインから出ない範囲でできるだけ道路左側に停止中のバスとの間に間隔を保つて進行したこと、右停止中のバスと対向して進行してきたバスとは、いずれも小田急電鉄鶴川駅行きであるが、本件道路を初めて進行した被告人にはこれを知るよしもなかつたこと、本件事故現場付近には横断歩道が設けられていること、その他本件道路の幅員、被害者両名が歩道上から車道上に出た時間的、位置的関係など、本件の具体的状況の下においては、道路左側に停止中のバスの前面から走りながらあるいは早足で車道上にとび出してくるというような、一般には自動車運転者としてもこれを予測することができない事態であつたと認めざるをえない。したがつて、被告人が前記認定の程度の措置をつくしたのにもかかわらず、なおかつ自動車運転者としての注意義務を怠つたものとは認められず、本件結果の発生につき被告人に過失の責任が認められないので、被告人に対し原判示注意義務があることを前提とし、被告人にこれを怠り、安全確認不十分のまま時速約四〇キロメートルで進行した過失がある旨の事実を認定した原判決には事実の誤認があり、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は結局理由があることに帰し、原判決は破棄を免れない。

よつて、その余の控訴趣意に対する判断を省略し、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に従い、本件についてさらに判決をする。

本件公訴事実は、

被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四五年五月一五日午後五時一〇分頃、普通乗用自動車を運転し、東京都町田市鶴川四の一八の一二先道路を能ケ谷方面から真光寺方面に向い時速約四〇キロメートルで進行中、バス停留所で乗降客取り扱いのため大型バスが停留中のため道路左側の同車前から横断者の出現が予想できる状況であつたので、減速徐行し、警音器を鳴らして安全を確認しつつその側方を通過すべき注意義務があるのに、同車の側方通過真前で警音器を鳴らしたが、安全を確認しないで前記速度のまま進行した業務上の過失により、自車を左から右に横断中の長谷川一恵(当時四年)および中村操二(当時二〇年)にそれぞれ接触転倒させ、右中村に全治二週間を要する右胸部等打撲等、右長谷川に全治約一ケ月半を要する右側腹部打撲等の各傷害を負わせたものである。というのであるが、前記のとおり、その犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法第三三六条により、無罪の言渡をすることとして、主文のとおり判決する。

(真野英一 吉川由己夫 綿引紳郎)

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